◎自由無碍の心。その裏付けとして、自由自在な幸福。自由自在なおかげ。自由自在の心というのは自分が楽になる心、さっぱりする心、すきっとする心。いうなら有難いという心。受けものさえ造れば、おかげ頂く。受けものとはどういう事かと言うと、まずは方向を変える事。自由自在な心にならしてもらうことを願いとしての信心への方向。
%1御神願とは。
%2合楽とは不思議なところ。その上に自分の方向を変える。
%3久留米の岡崎さんの取り組みへの教導
%4徹さんのお夢
%5九十九パーセントだめなら、残る一パーセントにかける。
%6三月十日の隅田隆太郎先生の公開講演会は、前後の働きから見ても、合楽のために開かれる。
昭和四十三年二月二十三日 月次祭の御理解
%V仏教の言葉でございますが、自由無碍の心とね、ね、自由な人間の心。自分の心を自由自在に使うけれども、それは、それの裏ずけとしては自由自在な幸福、自由自在なおかげが受けられるという事なんだ。信心によって皆さんが稽古をさせて頂いておりますのも、自由無碍な心を頂かして頂く為に、稽古をしておるというても良いのです。自由自在に自分の心が使えたら、こんなに有難い事はないだろう。
%1%Vけどもそういう心が使える様に段々なってまいりますと、所謂おかげの方がそれこそ自由自在、自由自在というのは私が夢にも思わなかった様な、ね、思うておるどころか思うておる以上のおかげがこう進展する、それが展開して来る訳ですね、おかげが。そういうおかげの世界に私共が住まわせて頂く事を天地の親神様は願いとされておるのでございます。氏子信心しておかげを受けてくれよとこう、ね。
いうなら私はそういう様な心に取り組んで、本気でその事を稽古さして頂いとりますうちにです、段々自分の心がやや自由自在に使える様になった。今でもなかなか使えません。なかなか頑固ですからまあ二日も三日も場合よりますと心にそれが、しこりが残ったり致します。ね。自由自在とはなかなかいかんのですけども、それに本気で取り組む、ね。
%V自由自在な心を、勿論自由自在というのは自分が楽になる心なんだ、さっぱりする心なんだすきっとする心なんだ。いうなら有難いという心なんだ。そういう心に向きを変えて行こう。そういう心にならせて頂く事に向きを変えさせて頂く。そこには自由無碍なおかげが受けられるようになるというんです。これは仏教でもそういう教えがあるところから見るとやはり、ね、お道の信心と同じ様な事を説いてあると思うんです。ね。
生神金光大神とは自分の心の中にいつも有難い有難い、どの様な事でも有難い有難いと受けられる、そういう状態を生神金光大神だと言われております。ね。ついさっき迄は有難かった心は平常であった、ちょっとした事を聞いたらもう心が乱れた腹が立った。ね。ですからそういう心に取り組まさせて頂くのです。だからそれをなおざりにしては、信心は本当のおかげになってこない。
最近私は、その方向を変えるという事を申します。ね。方向を変えなければ、おかげの方へこちらへ向きゃあ極楽、こちらへ向きゃあ地獄、地獄の方ばっかり向いといてから極楽にやらして下さい、極楽にやらして下さいと言ったって、言いながら地獄の方へ近づくいて行っておる様なもんです。ね。信心させて頂いておりますと地獄に到達せん前に、お気づけを頂いたり教えを頂いたり、様々な修行の事を教えを頂いて、はあ地獄に到達する前に回れ右をさせて下さる様な働きがあります。
だからお互いが本当に極楽行きをする方向へ心が向かなければいけんのです。方向を変えなければ、そうですもんね、久留米へ行くと思うとるのに、自分は日田の方どん向いとったっちゃあなた、久留米へ何時までたっても久留米へ到達しません。ね。ですから私はその事をです、方向を変えなにゃあいけん。その方向という事には色々難しい事があります。
先日からもこの事については、「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と言った様な難しいみ教えを、ね、そういう信心にならして頂く事だと、今日は私はその方向というのを、本気でひとつ自由無碍な心の使える様なおかげを頂こうと方向を変えなければいけない。ね。本気でひとつ心に触らない、いつもさっぱりとした心、いつも有難いという平常心。
そういう心を頂かせて頂こうそれが信心だというふうにです、ね、そこに教えがあるんだ、そこに日々の参拝があるのだ、稽古というものがそこへ焦点を置いて稽古する事なんだ、と方向を変えないけん。ね。そん為には先生もう腹が立ってしょうがありません、どうぞおかげを頂かして下さいというて、その腹の立つ事なら腹の立つ事を、悲しい事なら悲しい事をお取次願う訳なんです。ね。
%2そこにです、お取次の働きというか、自分の心の中にひとつの安心が生まれて来る。ね。ここにまあ五年も十年も段々信心の稽古をしておる人達はです、御結界にお取次を頂くともう心はさっぱりする。いやもうここの、先日ある方が福岡から参ってくる、ある難儀な問題を持ってきた。バスから降りてから駅の中を小走りに、合楽の方へ走って小走りして来よる、そのうちにです走って来よるうちにです、自分の心がさっぱりしておかげ頂いて、お願いする事がなくなったというて。
%2%V合楽というとこはそういう意味合いで不思議な所なんですね。障子を開ける、私がここで御結界奉仕をしとる、見たとたんに有難くなった、今迄は有難くなかったものが有難くなってくる。有難くなってくると不安も心配も消えてしまうようにおかげ頂く。お広前というとこはそういう働きのある所なんだ。ね。その上にひとつ自分の方向というものを変える。ね。
そこに例えば、信心は親に孝行するも同じ事ぞやと仰る様な大変な有難いみ教えが分かってくる。為にはまず自分自身の方向がです、ね、今日私が申します様に、いよいよ自由無碍な心が使えれる様な私になる事を願いとし方向としなければならない、これなら間違いがない。ね。それにそのことをお願いせんならんからお参りしとるという方向と違うでしょう。ね。
成程お願いしなければならん事があるからお願いするけれども、そのお願いをしなければならないお願いをする事を通して、難儀なら難儀という事を通して分からして貰う。ね。
今晩もお参りになっておられますが、久留米の岡崎さんが毎日、日参されます。昼前にお供えをもって、また今晩の月次祭にどうぞおかげ頂きます様に、この頃はお月次祭が八時、この前は初めてお月次祭を八時から拝まして貰いました。霊神様にご挨拶があり、そして次に誰か先生方の体験発表やらがあって、そこから頂かせて頂きましたら、やっぱあ、八時からお祭り頂いたら有難いですね、とこう言うておられます。
皆さんも実行なさらないけませんよ、有難うなる為に実行なんです。ね。そういう実行をしょうとしないで、ただ有難くなりたい有難くなりたいでは有難くなれんのです。そこに人間ですから様々な用件も出来まして出来ない様な事もある。ね。
今日は、久富先生方が雪の為にもう大変なラッシュになって、とうとう時間に間に合わなかったんです。それでもうその為に時間が遅れて、皆さんに申し訳なかったんですけれども、これは思いがけないそういうような事あるんですからね。これはまあ仕方がないとして神様にお許し頂けるんですけれども、そういう私は精進をしなければいけない。もうよかよかというたらですね、今日私がいう様にですね、自由無碍の心というものは頂けない。
%3自由無碍の心を目指しての信心にならして貰う。その今日は、岡崎さんがです、お届けされるんです。今日は奥さんの名前でお届けが別にしてございました。家内が昨日から、具合が悪くて休んでおります、どうぞおかげ頂きます様にという事なんだ。ところが先生おかげを頂きました。お二人の子供さんと奥さんと四人暮らしなんです、それで私が、その炊事をさせて頂きました。ね。
%3そりゃまあ本当に奥さんの有難さが分かって良かですね。そりゃあもう家内の有難さが分かりますけれどもです。私は一つそのおかげを頂きました。どういう事です、それがあゝた炊事をさせて頂きましたところが、みずやをちょっと開けた、トウフが一丁入っておった、先生最近トウフが一丁十五円もします。
%3十五円もするトウフをあなたいつ買うたつか分からんばってん色が変るごつなった、けれどもそれがもし以前の私でしたらです、家内にですね、お前どうしてこげなお粗末御無礼な事をするか、もっての中じゃあないか、いいえ今は十五円でなく二十五円もします、二十五円もするか、今また思いだしたばってん、二十五円かつももう無駄にしてしもうたという訳なんです。ね。
%3けれどもおかげを頂きましてからです、この頃それを家内に言わんですむ様になりました。ね。そればってんまあだこれじゃあ治まっとらん、二十五円もすると聞いたらちょっとこう きよる、十五円もすると思ったのが二十五円もする。ね。これがもっと百円もするもんじゃったら、ひょっとすると言うとりなさったかもしれません。ね。けれども十五円ぐらいのもんじゃあけん金光様金光様と、言わんで黙って、ね、ここは百円のものであろうが千円のものであろうが同じ事。ね。
%3信心させて頂いておるとね、そういう様な事が段々分かって来ると同時に、だから私、岡崎さんに申しました。家内は信心がございません。ね。食物はみな人の命のために神様が造って下さるのでございますから、そのお食物をこういうお粗末御無礼な事を致しまして、私が家内になり代わってお詫びさせて頂きます。どうぞ家内にはここのところを、段々分からして頂く信心にならせて頂きます様に、お粗末御無礼の事は、私がひらにひらにお詫び申しあげますという様な心の状態になると、これはもう辛抱せんです。
%3金光様金光様いうて辛抱せんです。ね。ですから本当の事が分からせて頂きますとです、それを辛抱せんですむのです。ね。そしてです、言わばお粗末御無礼になっておった家内のその事を詫びる心、いやその家内の事を願う心、そこに生まれて来るのが自由無碍の心なんです。ね。
%3以前の自分であったら、こげな勿体ない事をしてという事がやはり自分の財布に関係がある、ね、しっかり俺が働いてきよると、こげな無駄使いしてと言う事になって来る、けれども自分のものじゃあない、神様の御ものという事になって来る。だからそこには十五円じゃろうが二十五円じゃろうが同じ事、神様の御ものをお粗末御無礼させて頂いておる。信心が分からんから、これは、いうならば仕方のない事、信心が分からんという事が出来ない。
%3そこに家内の為に詫びていく信心があり、また分からない家内の事を後ろから祈っていく信心がある。そう祈らして貰う自分自身が有難うなってくる。そういう心が自由無碍の心。ね。自由自在に自分の心を使っていく。そういう稽古をさして貰う為に、いよいよ教えが分からなければならんという事になるのです。
同時に、これは信心があってもなくても同じですけれども、こうとひとつ思い込んでおる事をですね、『大きな今日御心眼に頂きましたです、大きな袋を持っておる中にちょこっとばかり何か入っておる、それを口をです、しっかり結んである、ね、自分の思うておる事をほんなこつと思い込んどる。ね。信心というものはもうそれこそ自由自在にです、もっともっと有難い事、もっともっと豊かな大きな事にです、ね、変っていかなければおかげは大きくなっていかんのです。ね。折角こういう大きなズタ袋の様な大きな袋を頂いております、ね、この紐が緩められておかなければならない。
いけないものはいつでも出される、良いものはいつでも入れられるという様に自分の心の状態がなっておかないと、信心が分かりもしません進みも致しません。』ね。そして去年思うておった事も今年思うておった事も同じ様な心の状態では信心が進展しておるとは言われません。ね。もういつも本当な事、本当の事を求めての信心にならしてもらわなければ。
%4先程、今終わりましたが、若先生と徹君とお話をしております、「徹君、今朝からあんたがお夢頂いとったのはほんなこつだったの」、『どういうお夢を頂いとったかというとね、今日はお月次祭を仕えんならんというお夢を頂いとった。そして若先生に話した、ね、だから若先生がこりゃあ、自分が今日のお祭りを迎えなければならんのじゃあなかろうかと思いよった。ところがお父さんが遅くなった。お父さんの代わりに、まあいうならば神様が使こうて下さった。』
%4こういう所がですね、神様が、成程今日は自動車の都合で、ね、途中ラッシュに会って遅くなったけれども、ね、どうしてもやっぱり秋永におかげをやりたいという神様の願いがです、自由自在に徹さんをして使こうて下さった。ね。そこに私は秋永先生の信心がです、最近自由自在に自分の心を使わして頂けれる稽古が本気で出来ておられるからだと私は思うのです。ね。神様が自由に使おうとなさってもです。
%4さっき申します様に、しっかり自分の口を、ね、結んでおったんではです。結局素直という事が言われますけれども、素直に聞けない。そらりゃあそうじゃろうばってんとばってんをつける。ね。ですから神様が自由自在におかげを下さる為には神様が自由自在に使おうとなさる。為にはもう今朝からです、息子にその事がちゃんとお知らせがしてある。成程、神様が自由自在に秋永を使いなさるなあという事が感じられる。ね。
%5今日ある方が一家中で御礼に出てまいりました。あそこへ大きな鯛がお供えしてあったでしょう。もう宏大なおかげを頂いたんですよ。ですからその御礼に出てまいりました。ね。もうそれこそおかげを頂きますと、もうそれこそもう全部お供えでん出来るだけ大きかやつばしょうごたる。ね。そりゃあ有難いでしょうが、信心は。魚屋でこげん大きかやつはなかというやつをこうてくる。
%5そしてそれがね、信心ちゃあこげん有難い。おかげを頂かして貰う、心が弾んでくる。ね。嬉しゅう有難う神様への御礼が還元が出来て来る。おかげを頂かにゃあいけません。ある大きな事業を致しました。この頃からもう本当に、一家を挙げてその事に取り組み、もうその事業がお仕舞いになるかならないかという瀬戸際なんだ。それを何回も何回もそのお願いにみえるけれども、私はそれを放任しておかげを頂かした。
%5三度目でしたでしょうか、四度目でしたでしょうか、丁度またそのお願いに見えた、丁度若先生が奉仕しておりました、大変な事ですからね、そこである所からの確実なニュースが入り、こういう打つ手があるこうしたらばどうか、そうすっと金は何百万ぐらいの損ですむ訳なんです、このままほっときゃあ、それは店がお仕舞いになるかもしれん、もう事業はこれで仕舞えるかもしれん。それがいよいよ確実になって来た。
%5ここでお届けがあった。先生九十九パーセントはもう駄目でございます。大変な事だったんですね、そこで若先生がその事をお届けさして頂いて、ね、けれどもずーっと度々、親先生がそういうふうにお届けされておられるなら、そういう腹でおかげ頂かにゃあいけませんよ、ともうそれこそそういう有難いお取次が出来た。
%5というのもです、その事をお取次さして頂きよったらです、神様の方からおいさみがあった、そこで若先生腹が決まったんです。ね。そんな人にでも頼みなさんな、ね、そして神様におすがりして行きなさい。
%5私が言うとて納得がいかんなら、親先生は、今日は具合が悪くて休んであるけれども、起こしてもう一辺お伺いをしてごらんなさいと言うので、二人で私の休んでおる部屋へやってみえられました。話しを聞けば聞く程、もう本当に申し上げました、九十九パーセントは駄目だと、私は寝ながらお取次さして貰いよった。ね。
%5この事が私、本当にこまごまとね、お話出来ない事が残念ですけれど、ね、そこでです、私は神様の仰る事には二言はない、これが私の考え方なんですから、ね、九十九パーセント駄目なのならば、私ならば〇〇さん、後の一パーセントに賭けます。と言いながら私は起きた。
%5そして私は本気でその社長という人に話しました。どうですかあなたまだ若いんです、ね、私はその九十九パーセント後一パーセント残っておる、その一パーセントに命を賭ける。ね。一心におすがりをする、そしてです、あなたはまだ若いんだから、これで例えばその事業が倒産になっても構わんじゃあないか。ね。
%5それこそね、親譲りの少しばかりのものを持っておるよりも、さっぱりこの際、もうさっぱりして、そして自分の信心と自分の力で、それこそ昔いっかめごというが、ね、資本のない商売をいっかめごと言います、そのいっかめごの中からでも立ち上がろうという気持がせんか、もうそれこそその人の顔に精気がみなぎり、どん腹が据わったんです。ね。
%5腹決めました、どうぞそう腹を決めましたから、その事を神様にお取次をして下さいという事であった。ね。もうそれこそ命の瀬戸際というところを何回も通りましたその事については。ね。ところがです、今日先方から電話が掛かって来た。もう恐れ入ります、もう実に見事におかげになっていっておる。〈倒産もせず〉にあっちも立ち、こっちも立ち、ね、もう本当に今迄仇の様に言うておった人がです、ね、本当にその言葉の中にもですね、もう本当に、まあすまじゃったといったような意味合いの事から、解決のおかげになったのでございます。ね。
%5そこであゝいう鯛になった訳でございます。ね。今日も一家中でそこへ御礼に出て見えました。男泣きに泣かんならん程に有難い事でございました。ね。けれども〇〇さん、これは頂いたのがおかげじゃあないよ、この事を通して分からして頂いた信心が大事な事ぞと私、これが有難い事ぞ。ね。九十九パーセント駄目である、と思うておったのが後の一パーセントに賭けさせて頂いたら、一パーセントが百パーセントのおかげになったのである。
%5お金もなーんもいらじゃった、ね、それこそ心配を掛けておった所にはあっちにもこっちにも今日電話でおかげを頂いたという事を、そして、所謂そういう御礼参拝になった訳でございます。ね。そこで今日私が申しております所のです、ぎりぎりの所謂自由自在な心。ね。岡崎さんの事をそうして申しました。
お互いが信心を段々分からして頂いて、今迄なら、それこそ口やかましゅう家内に言うておったであろうけれども、それを言わんですむ自分にならして頂いた、だいぶん自由自在な心が使える様になったばってん、まだ一物ここにある。十五円もするもんが二十五円が、まだここにある。それを今日ここで分からせられた。
本当にそうじゃった、神様の御ものであった、心がさっぱりした、それが二十五円であろうが百円であろうがです、ね、信心の分からない家内がです、ね、心からその事を詫て、神様に詫られる、言わんですむどころじゃあない、それを祈っておる自分自身が有難うなって来た。ね。
そのうち信心が段々分からして頂いてくる事になる事によってです、私共の心は夫婦喧嘩の元にでもなりかねない様なものが円満なおかげになってくる、自分自身の心の中に有難い自由自在な心が頂けれる稽古が、その様にしてなされてくる。
神様が自由自在なおかげを下さろうとする前に、ね、まず氏子を自由自在にお使いなさろうとする働きが始まる、それは秋永先生の親子の事でお分かりになったでしよう、ね。丁度私お祭りを使える前に、古屋さんが昨夜、保険の外交をなさっておられます、今から先生、まあ八百万円貯金額を作らなければなりません、だから受けものを造りなさいよ受けものを造りなさいよ、ほかに時間がございませんからそう言うた。ね。
いくら八百万円であろうが一千万円であろうが、こちらが受けものさえ造れば、おかげ頂くのです。そんなら受けものとはどういう事かと言うとです、ね、方向を変える事なんだと、自分の心の中に、例えば岡崎さんなんか、もう何十年の信心ですから、もいよいよ金光様の信心は金光様の先生のごと詳しい、そういう様なものがあろうけれどもです、一遍合楽にその したが最後、そういうものは取り出して、そしておかげの頂ける信心をこの中に積み替えにゃあいかんのだ。ね。
そしてこの中に有難いものは入れる、ね、出しちゃあならんものを出さん、ここん所を自由自在にです、自分で分からして頂く信心にならして頂いて、方向をまず第一変えなければいけないのだ、どういう方向かと言うと、今日私が申します、その自由自在な自由無碍な心にならせて頂く事を願いとしての信心に方向を変えるんです。ね。
そんならこっち向いたから、痛いやら痒いやら願うちゃあならんかというと、そういう事はないのですよ。その痛い事やら痒い事らを通して、ね、自由自在な心を頂かして貰う稽古をするのです。ね。それを見易う私は岡崎さんの事で申しました。ね。そしてです、いよいよ信心の稽古が本当に出来る。
%5今日私が、今お話しさせて頂きました、一家を挙げて皆さんの信心が、最近なんか熱烈にその信心が、修行が出来よったからです、私もそういうお取次が出来たんですよひとつは。Z『その時なんか神様から私が頂きますとですね、神様がもうお仕舞いになると神様が仰ったです一番初めに。御神眼にあの仕舞いというのがあるでしょう、ね、こげんこうこうしてから、詠いに合わせて踊る舞いを仕舞いという、ね、それを頂いたんです。
%5Zはあおしまいになる、それで神様にお願いさして頂きよったら、しまいが仕舞いになるおかげをと私は頂いた、仕舞いというのはね、これでおしまいになるすんでしまうという事なんだ。これでしまえるおしまいだという事。けれどもです、ここにお取次いかんによってはです、しまいが仕舞いになる、仕える舞いになる、神様へ奉仕をする舞いになる。ね。
%5Z神様に喜んで頂ける様な信心に、これを境にならせて頂けれるおかげを願わせて頂きゃあ、しまいが仕舞いになるおかげが頂かれるぞという事を頂きましたから、私はね、とん腹据えて、もうこちらの方はおしまいになったって良かじゃあなかかと、まだ若いんだから、もうすっきりとした自分の信心と力によってです、新たな事業を起こさして貰う様なおかげを受けたらいいじゃあないか。ね。そこに日頃の信心修行が出来ておる、そこへどん腹が決まった。所謂ままよとは、死んでもままよの事ぞ。ね。
そういう素晴らしい自由自在な心というのがその奥の奥にはあるのです、人間的にぎりぎりの時に迷わんですむ、そういう心が自由自在の心なんだ。神様に一心におすがりさせて頂いて、ね、神様任せになる心が、所謂任せきった心ですから自由自在の心です、そこに神様が十二分にお働きかけ下さる事の働きが始まるのです。
氏子が心配すれば神様が心配せんですむと仰る。ね。自分が心配しとっちゃあいかんのです、もうそれこそ夜も日も眠られん程心配であったけれども、もうままよという心になってどん腹が据わった時に、もうそれは、それがその後に来てから社長が言うんですよ、先生周囲の者が今度心配してくれましたら、あれ以来私の心の中にです、こんな事で良かじゃろうかという様に呑気な心が頂けれるんです。おかげに変った。ね。
そういう所にです、ね、おかげがあるんです。ね。心配ばっかりしとったんじゃあ、神様が心配しちゃあ下さらん事になってくる。もう心配を投げだしてしもとりますから、神様が十二分にお働きが出来るから、只今申します様な、そういう大変な事がです、ね、それこそ難儀がなかったかの様なおかげになって来る。
そしてそういうおかげだけでなく、そういうおかげを持って、いよいよ神様の絶大なお働き、ね、絶対信の信心がそこからまた新たに生まれてくる。ね。自由自在、自由無碍、ね、そこにはです、自由無碍のおかげの頂けれるおかげを頂かして貰う事を願わして貰う為に、皆さんの信心の方向が、ね、その難儀な様々な問題を通して、ね、本気で有難くならせて頂こう、本気で心がさっぱりするおかげを頂かせて頂こう。ね。
本気でいつも神様に御礼の申し上げれる様な心を頂かせて頂こうという様なです、願いの方向に皆さんの方向が変えられる時にです、もう極楽の方へ方向が向いとるのですから、歩いてからでも極楽行きは、もう間違いがない。こちらの方ばっかり向いとる、ご利益ご利益ばっかり思うとる。ねえ。神様の教えはもうてんで自分の心の中に紐で括ってから入らんごとしとる、これじゃあですね、結局地獄の方向に向かって行くより他にはないのです。方向を変えにゃあいかん。ね。
三月の十日には皆さんもご承知でございましょうけれども、隅田隆太郎先生の講演会、講演がございます。この講演は、勿論信者はおもですけれども、信者でない方にも聞いてもらおうという、そういう意図の基に、今度久留米の松栄会が主催で開かれる事になります。ね。この教会、初めの間は百五十人という事であった。ところが最後の会合で、私に合楽が三百名持ってくれという事になった。ね。
そこで先日近くの方達が、それならどういうふうにして三百名という、ね、例えば信者が二百なら、せめて信心のない人達も百名ぐらいそのお導きがでけて、お話を聞きに来てもらおうという話し合いがあった。ね。その時にこの葉書を大祭の様に出そうという事になった。ね。それも結構だけれどもね、これはそれよりも私は、例えば、近くの皆さんひとりひとりがですね、本気でその気にならなければ、私はいかんのじゃあないかと思うのです。ね。
だから丁度正義さんがおりましたから、正義さんあんたが久富建設のあんたが、なら家族夫婦で親子まあ四人なら四人、ね、それに従業員の方を六人なら六人、もうこげな素晴らしいお導きをする機会がないじゃあないか、ひとつ給料を払ってからでもいいじゃあないか、あんたがうちから十人と、茂さんがおりましたから、むつ屋呉服店から店員さん達または私共全部で十人と、そうすると十人おると百人づつ出来るです、三十人おると三百人出来るです。ね。
近くの方ではこういうような話し合いをして、近くの者銘々がこういう気持でおるという事に総代会にあらゆる会がです、そういう気になったらです、三百人が六百人にも出来るだろう。こういう素晴らしいチャンスがあるもんか、ね、この頃からお父さんの隅田博士がここにお話しに見えられた、今度その息子さんである、ね、そりゃあなかなかもう学者でもあるし、信心も出来ておられる。お話も上手だという事でございますけれども。
こういう対外的なお導きの出来れるチャンスを頂いたのであるから、お互いがただ葉書ども、大祭の時の葉書ども出したぐらいな事じゃあいかん。銘々あんた達がそういう気にならせて頂かにゃあいけんよと言うて、まあお話した事でした。
%6これはね、良く考えるとね、これは久留米の松影会じゃあないよ、これはほーんなこつ言うとね、「合楽のお広前、私共一人一人の為に、今度の講演会はあるとよ」と私は申しました。後先の事を考えて見てごらん、もう神様のそういう、とても合楽が講演会をするというたっちゃあ、他所の教会はだーれも援助してくれませんよ。ね。その通知を出すのは、合楽が三百人、ね、これが四百人、五百人になるかも分かりませんね。
%6けども合楽は〈そうせん〉、しかもあのお父さんの見えられた事から、何やらかにやら、それから入ってくるニュースの事を聞かせて頂きますと、これはまるっきり合楽の、私共信者一人一人の為に、これは数揃えの事じゃあないぞ、これはいよいよおかげを頂かせて下さるの為の、そういう働きがです、あるように私は思う。
%6うちに三百名も割り当てが来てから、これではおかげにならんです。私の心が自由自在に有難い方へ転んで行く。こりゃあ若先生こりゃあ例えば考えて見んの、こりゃあ合楽の為にこりゃあ今度の講演会があるとよというて、この人にまた話しました。そういうころころと有難い事へなる時にです。ね。
例えていうならば久富建設なら、こりゃあ久富建設の為に今度の、ね、うちにもうちうちの者がおりますから、そういう機会を与えて下さるというと、私の為にという事になってくる時に、それに例えば有難い事に一生懸命ならして頂けれる事が出来るんです。ね。有難い事に、皆さん一生懸命にならなければね、有難いものが頂ける筈がありませんよ。
だから今度は成程話しも出そう。色んなそのパンフレットの山のものも来とります、それもお配りもしょうだけではない、銘々が例えば百名なら百名の人がです、ね、そんなら五名づつ行ってごらんなさい、百名の人が五名づつ行ってごらんなさい、五百名出来るじゃあないか。しかもね、そりゃあ合楽の面子に掛けてでも五百名持つという、そういうけちな事じゃあないんだ。
行く一人一人がです、ね、隅田隆太郎先生の話しを聞かせて頂いて、おかげを頂いて帰って来なきゃあならんのだ。為に成程私一家の為に、合楽のお広前の事の為に、それがあるという様な心が、頂き方がです、そういうふうに自由自在に仕えられる様になるとです、それこそ人にお教えせずにはおられません。
それこそ嫌という人なら、バス代ぐらい出すけんでというて、行ってもらわずにおられません。ね。そういうつもりでです、ね、三月の十日の講演会は頂かして頂こうというふうに思うとります。皆さんの一人一人がです、そういう心にね、自由自在に、そういう心に仕えれる、先生はあげん言いなさるばってん、うちは自分一人でよかろう、これはもう自分の心を縛ってしまっておる。
神様がこんなおかげを下さろうとしておるのを、もうその中に入れまいとする、それではおかげが受けらんと思うのです。どうぞ。